世界最初のコーヒー店の誕生
アラビアを起源にイスラム教全土へと広まったコーヒーは、
1511年、カイロに世界初のコーヒー店を出現させました。
1554年には、トルコの首都コンスタンチノープルに「カヴェー・カネス」という著名なコーヒー店を誕生させています。
この当時、トルコでは、コーヒー豆を煎り、それを石臼で挽いて煮出して飲む方法が広く親しまれていました。
イギリス・ロンドン
ヨーロッパにコーヒーが本格的に普及することになったのは
ロンドンのトルコ人貿易商ダニエル・エドワードが、トルコから連れ帰ったパスカ・ロゼにコーヒーをいれさせ、
お客にも振る舞っていたところ大評判となり、1652年にコーヒー店をオープンしたのがきっかけになりました。
異国の飲物であるコーヒーの珍しさと独特の風味にひかれて大変な賑わいを見せていました。 これが近代的な喫茶店の誕生と言われています。
そしてわずか10年で2000軒のコーヒー店をロンドン市中に林立させるという、熱いブームの発火点ともなったのです。
この頃のコーヒーは依然として煮出して飲むターキッシュ・コーヒータイプでした。
フランス
フランスでもコーヒーはまたたく間に普及し、フランスはコーヒーの近代化に重要な貢献をしました。
ドリップ式の考案です。この方式を考え出したのは、驚くべきことにひとりの名もないブリキ職人だったのです。
ポットの中にたらした布袋にコーヒーの粉を入れ、熱湯を注いで浸透させる器具の発明によって、
煮出すコーヒーから漉(こ)すという、近代コーヒーの基盤が編み出されたのです。
それは1763年、まさにコーヒーの一大革命でした。
現在でも多く使われている、コーヒーの豊かな味と香りを最大限に抽出するこのドリップ式を考案したのは
ブリキ職人だったのですね。
日本
コーヒーは、日本にはいつ頃伝わってきたのでしょう。
一説には、足利時代にキリスト教の布教のためにやってきたポルトガル人やスペイン人が伝えたといわれていますが、
現在有力な説としては、江戸時代に入ってから長崎出島にオランダの商人が持ち込んだとされています。
1797年(寛政9年)の「長崎寄合町諸事書上控」の中の、長崎丸山の遊女が貰った物の一つとして「コヲヒ豆一箱。
チョクラート」という文章が最初です。 1782年(天明2年)に、蘭学者志筑忠雄が訳した「万国管窺」という本で、この中に「阿蘭陀の常に服するコッヒーと云ふものは形豆の如くなれどもじつは木の実なり」と書かれています。天明3年の「紅毛本草」にも、コーヒーが万病に効く薬だという意味のことが記されて、名を見せています。
可否茶館(こーひーさかん)
明治になると、世はまさに文明開化の時代です。
東京の町には西洋御料理店なるものが誕生し、コーヒーがしだいにメニューに加えられていきました。
そして、1888年(明治21年)4月13日。東京・下谷黒門町に「可否茶館」という名前の、
日本最初の本格的喫茶店が鄭永慶(ていえいけい)という人によって開店したのです。
親が外交官だった永慶は、自分の家を洋館に改造し、コーヒーを一銭五厘、牛乳入りコーヒーを二銭で売り出しました。「可否茶館」は残念ながら3年足らずで閉鎖してしまいましたが、
鹿鳴館の時代に一般庶民が利用できる喫茶店を開業した鄭氏の功績は、日本コーヒー史においても特筆されています。
パウリスタ
明治の中ごろからコーヒーを飲ませる店が少しずつ増え、
明治の末には、東京・銀座に「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」が開店しました。
中でもコーヒーの大衆化に最も貢献したのは「カフェ・パウリスタ」という、
ブラジルコーヒーの販路拡大とPRのために開かれた喫茶店でした。
明治41年に始まった、日本からブラジルへの移民の多くが、コーヒー農園で働いており、
その見返りとして、ブラジル政府から無償のコーヒー豆が提供されました。
その豆を用いて、コーヒーを低価格で提供した「パウリスタ」は、
最盛期には20数店舗、従業員も1000名を越えるほど繁盛したのです。 その「パウリスタ」で働いていた一人が、キーコーヒーの創業者・柴田文次です。
「パウリスタ」の繁盛に、コーヒー事業の計り知れない可能性を見出した文次は、
大正9年、横浜市中区福富町に、「コーヒー商 木村商店」を開きました。
以来、日本にコーヒーを普及させるため、コーヒーの製造・販売のほか、
世界のコーヒーやコーヒー器具を紹介したり、更にはコーヒー農園事業までを手がけました。
一方で、コーヒーシロップなどの新しい商品を開発、またコーヒーの啓蒙や広告宣伝を積極的に行い、
日本のコーヒー文化の発展に大きく貢献しました。
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